「AJ出張版」は、株式会社アカリクが発行する「大学院生・研究者のためのキャリアマガジン Acaric Journal」の過去の掲載記事や、WEB限定の新鮮な記事をお送りするカテゴリです。今回はvol.1の掲載記事をお届けします。
生物物理学者として基礎的な研究を進めてきた野地氏は、独立して研究所に所属した際に初めて分野の異なる工学系研究者と関わることになり、分野間のカルチャーショックを受けます。今はバイオ分析技術や社会実装に取り組む野地氏ですが、そのコアにあるのは生物に対する純粋な好奇心であり、異分野と接する際も、その好奇心や自分が抱えている「解き明かしたいこと」をはっきりしておくことが大切であると考えています。
ー 先生が取り組んでいらっしゃる研究テーマを教えてください
今は多岐に渡っていますが、一貫して追求している「問い」は『「生きている」という状態は物理と化学の言葉でどのように表現できるのか?』ということです。おそらく、私が所属する生物物理学分野の研究者が共通に目指すところだと思います。
「生きている」の最小単位が細胞であるというのは、多くの人が同意できるところだと思います。しかし、生体分子一つひとつは「生きていない」。それがどのくらい沢山集まれば、そしてどのように集まれば「生きている」と言えるのか。「生きている」と「生きていない」のギャップはなんだろうと、まあそういうことですね。
生物学に限らず、何か対象やシステムを理解したい場合、まずは観察・分析から始まります。生態系を見るときには、まず構成する生物種の分類から始まり、各生物種の行動や関係を観察し、分析する。細胞の研究も同じです。こうして解析すると、生体分子があまりに良くできているので合理的に設計されていると勘違いしがちです。しかし、実は必ずしも合理的ではなく、別のデザインもあり得るということが当然あるはずです。いま目の前にある地球型の生物や生体分子の設計は、必ずそうでなければいけなかったという見方ではなく、ありえる解のひとつとしてみるべきだと思います。
観察・分析をすればするほど、すごく詳細な発見が沢山得られますが、その詳細が果たして本質的な性質なのかは分かりません。そのため「作って試す」というアプローチが必要になります。ただ、バイオロジーでは、未だに「作って理解する」というアプローチがとても難しい。私自身も分析的アプローチを主体としてスタートし、1分子計測技術を駆使した研究では世界を牽引してきたと自負しています。今はその知見に基づいてATP合成酵素の再設計にトライをしたいと思っています。
ー 産業分野で関連するところは、医療や創薬が中心となるのでしょうか
今はウイルス検出をはじめとして、新しいバイオ分析技術の開発や社会実装にも取り組んでいますが、私のアプローチは最初から世の中の役に立つことを目指して戦略的に開発するというものではありません。ATP合成酵素の研究がやりたくて、分子1個を小さなところに閉じ込めてその機能を正確に分析したいというのがモチベーションでした。
とても小さなリアクタ技術を開発したんですが、意外と使い勝手も良く、ATP合成酵素以外でも利用できるんじゃないかと実際にやってみたらトントン拍子で上手くいったんです。その成果を発表したら、それまで企業とか全く縁がなかったんですが、突然たくさんの企業からご連絡いただくようになりました。
今では例えば免疫測定などの臨床診断薬市場では世界で最も大きなAbbottというグローバル企業と共同で超高感度の抗原検査試薬を開発しています。当然、新型コロナウイルスの超高感度検出にも利用できる技術です。原理的に似た技術を開発してインフルエンザウイルス検出にも利用したら、これも成功して、私のところのメンバーが会社を起業して取り組んでいます。
最近は少し科学政策がトップダウンに偏りすぎだと感じています。アカデミアとしては洗練化や深化に加えて、全く違った発想や切り口を起点とした新しいシーズをどんどん出していくことも大事だと思うんです。もっとエゴイスティックに単に「面白いから」というスタンスを取ることもありだと思ってます。
ー そういった考え方は学生時代からお持ちだったのでしょうか
いいえ。そもそも駆け出しの頃はアカデミアで生き残ることに必死で、そういうことを考える余裕は全くありませんでした。苦労して学位をとり、ポスドクを経験し、その後に独立した時も必死で新しい研究に取り組んで、だんだんと新しいプロジェクトでも結果が出て……先ほどのようなことを考えるようになったのは、独立して少し経ってから、自分の研究を振り返る余裕ができた時です。
独立してラボを持ったのは2001年で、東京大学生産技術研究所(以降、生研)というところに助教授としてポジションを得ました。僕がATP合成酵素という酵素分子が化学エネルギーでくるくる回転をするナノモーターであることを証明した直後で、初めて工学系の研究者に囲まれて結構なカルチャーショックを受けました。まるで最初から社会のニーズに応えるため研究に取り組んできたように説明する方も多いですが、話してみると実は本人の好奇心が核にある場合が少なくない。そういった体験もあって「やっぱり好奇心を出発点にしていいんだ」という考え方に至ったんだと思います。
当時は異分野なので使う単語が違うなど、参入障壁はあリましたが、交流する研究者に同世代も多く、忖度なく議論しやすかったですね。基礎的なことも当然お互いに知らないので、「それ何ですか」「あ、知らないんだったら教えますよ」みたいなやりとりで相互理解を深める感じです。異分野融合を成功させるための重要な前提条件ですね。
異分野融合って強く推奨されていますが、個人的には分野融合自体を目的にすることは違和感を感じています。サイエンティストは自分の中で問いとその解に必要なものを具体的にイメージしておく必要があると思います。工学の立場の場合はその逆で、サイエンティストからアプローチされた時に「あなたの問いは何ですか?本当に取り組むべき問いですか?私の技術はあなたに対してソリューションを与えるんですか?」と確認することが求められます。自分が何を欲しているのかに対して、クリアな状態になっていないと、アンテナ拡げているつもりでも実は拡がっていない。結局、己の問題をどこまで把握しているかが大前提だと思います。
「サイエンティストに必要なのは、自分の好奇心を磨くこと(2)」はこちら
プロフィール(インタビュー当時)
野地 博行 氏
1969年北海道生まれ。1997年東京工業大学大学院総合理工学研究科博士課程修了。博士(理学)。2000年科学技術振興事業団さきがけ研究員。2010年東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻教授。2015~2020年革新的研究開発推進プログラムImPACTプログラム・マネージャー。おもな研究テーマは、1分子生物物理学・デジタルバイオ分析法・人工細胞リアクタ。