「AJ出張版」は、株式会社アカリクが発行する「大学院生・研究者のためのキャリアマガジン Acaric Journal」の過去の掲載記事や、WEB限定の新鮮な記事をお送りするカテゴリです。今回はvol.1の掲載記事をお届けします。
まだ原子・分子が見つかっていない時代にマクスウェルが行った思考実験である「マクスウェルのデーモン」、それは情報を使ってエネルギー収支を制御するという、情報と熱力学を結びつける考え方であった。この考え方を鳥谷部氏と共に実証した沙川氏が取り組む量子情報理論とはどのような学問なのか、このような学問を学んだ学生達はどのような道へ進むのか、お話を伺った。
― 量子情報理論に興味を持った経緯を教えてください
学部3年の時、ニールセンとチャンの量子情報の本を自主ゼミで友人と輪講したのがきっかけです。
― 「マクスウェルのデーモン」の論文で有名だということを伺っておりますが、どういったものでしょうか
それは情報と熱力学を結びつけるという話です。情報を処理する際に最低限必要な仕事量を決めるのが熱力学第二法則で、特にエントロピー増大の法則と呼ばれるものが関わってきます。情報もエントロピーの一種ですので、熱力学のエントロピーと本質的には同じもので、そういった意味で情報と熱力学が結びついているのです。情報処理の際にどれだけのエネルギーが必要なのか、原理的な、物理的な限界を定めることができる。これが情報と熱力学を結びつける基本となる考え方です。
「マクスウェルのデーモン」は、先程とは逆に情報を使って仕事を取り出すということをマクスウェルが指摘したものです。情報を使ってエネルギー収支を制御することができる、というのが現代的な見方になっています。
原子分子でやると難しいのですが、コロイド粒子を使ってこの「マクスウェルのデーモン」をやろうとしました。それが2010年、私が博士課程3年のときで、「マクスウェルのデーモン」を初めて実現する実験でした。
― 情報を使うというのは具体的にどういうことでしょうか
2つの部屋に気体が入っていて、速度の速い分子が右からきたら、部屋の真ん中の扉をあける、逆方向からきたら扉を閉めるということをすると、速度の速い(温度の高い)分子だけを左側に集めることができます。分子がどれくらいの速度かという情報をみて、制御を行うことで、温度差を作ってエントロピーを減らすことができます。19世紀はまだ原子も分子も本当にあるのか分からない時代でしたので、マクスウェルは思考実験で考えました。
― 19世紀の思考実験の仮説が2010年に実験的に作ることができたということですね。実現したときは何人かで研究されていたのですか
私は理論家で、実際には現在東北大学で准教授をされている鳥谷部祥一先生という方が実験をされました。私自身は理論を色々作ってきたのですが、鳥谷部先生の持つ技術がフィットして実現できたのです。
― 研究を進めながらキャリアをどのように考えてきたのでしょうか
高校のときから物理と数学が好きで、大学院までは行こうと思っていました。でもその先はどうなるか分かりませんでした。M1の夏頃に最初の成果が出て、論文にまとめて、それなりに注目されるようになったので、研究者として続けられるかなと思って、今にいたります。
― かなり早い段階で今の研究につながるかたちが見えていたようですが、学部時代から研究をはじめていたのですか
大学院からです。量子情報理論と統計力学に興味があり、両方研究できる上田正仁先生の研究室を選びました。あるとき急に先生から「マクスウェルのデーモンに興味ない?」と言われたのがきっかけです。
当時は、統計力学の現代的な理論も量子情報も盛り上がっていたのですが、それを結びつけてマクスウェルのデーモンを改めて考えようという人は世界的にもいませんでした。上田先生の着眼点が良かったのだと思います。
― 量子コンピュータが注目され、よく聞く言葉になりつつありますがこういった状況に思うことはありますか
私が修士の頃は本当に量子コンピュータができると思っている人は少数派だったかもしれません。日本の量子コンピュータ分野を牽引してきた山本喜久先生のサマースクールがその頃に沖縄であり、量子コンピュータの実現可能性についてよく議論していました。その後、GoogleやIBMの参入で急激に進んで、時代が変わったと感じます。
― 山本喜久先生は、今どちらにいらっしゃるのでしょうか
シリコンバレーに発足したNTT Research, Inc.のPHI Labで所長をされています。以前は日本のNTTにいらっしゃったこともあります。そこから多くの研究者が輩出されました。
― その世代では企業のほうが研究が進んでいたのですか
それは分野ごとに違うと思いますが、NTTやNECは、量子コンピュータの研究を先導していました。Googleで採用されたのと同じ超伝導量子コンピュータは、現在は私と同じ学科にいる中村泰信先生がNEC時代に作りました。
― 先生の研究室でも企業に行く人は多いと聞いていますが、どのような進路が多いのでしょうか
多くは民間企業でIT系の仕事に就きます。プログラミング技術は即戦力ですし、数理的な能力は高く評価されていると思います。教育系YouTuberをやっている学生もいます。
― 研究室の学生が博士に進む割合はどのくらいでしょうか
半分くらいです。物理工学科は比較的進学率が高いです。
― 理論物理や数学は基礎研究すぎて、民間企業は拾ってくれないんじゃないかという学生の不安を聞くのですが、どのようにお考えでしょうか
少なくとも理論物理に関してはそんなことないです。量子コンピュータの基礎研究をやれる企業はありますし、就職で困っている人の話は周りでは聞かないですね。
― 心強いお言葉ですね。そこで迷われている方もいるかと思います
特に外資系企業だと博士号を持っていると優遇されることが多いので、博士の方が選択肢は広がります。野心のある人は博士号をとっておくべきだと思います。博士号がマイナスになることはあまりないですし、みんな行きたいところに行けている。というのが実感です。
― 取り組まれている研究領域は今後どうなっていくのでしょうか
特に情報熱力学を展開させていきたいです。様々な分野に関係のあるテーマですので。中でも、量子多体系に注目したいです。例えば、量子効果を使った熱エンジンを作るとか。量子系での情報熱学力学というものを考えていきたいです。
もう一つ、量子とは関係ないですが、生物へ応用する研究が世界的に流行っています。日本だと「情報物理学で紐解く生命の秩序と設計原理」という科研費のプロジェクトが走っています。
― 最後に学生に向けたメッセージをお願いします
修士の頃は、キャリアとかこれをやったらウケるということよりも、本当に自分が面白い、「これをやったら本当に世界の最先端いけるだろう」というテーマに取り組む時期であってもいいと思っています。比較的自由がきく年代なので、世間の流れとは別に、自分が本当に面白いことはなんだろうと考えていい時期だと思います。そういうのを大事にしていきたいなと。精神論的ではありますが。
― 自分が本当にやりたいこと、大きな絵を描いてほしいということですね。ありがとうございました
プロフィール(インタビュー当時)
沙川 貴大 氏
1983年兵庫生まれ。2011年東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。博士(理学)。同年京都大学白眉センター特定助教。2013年東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻准教授。2015年東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻准教授。2020年東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻教授。2019年文部科学大臣表彰若手科学者賞受賞。専門は量子情報と統計力学の理論。