「AJ出張版」は、株式会社アカリクが発行する「大学院生・研究者のためのキャリアマガジン Acaric Journal」の過去の掲載記事や、WEB限定の新鮮な記事をお送りするカテゴリです。今回はvol.3の掲載記事をお届けします。
「アカリク NICE EDUCATION」では、大学院でユニークな教育に取り組んでいる大学教員の方々を紹介しています。今回は、YouTubeチャンネル「はちげんめっ!」を企画・運営し、多様なゲストと共に動画を配信されている青山学院大学の伊藤先生に、取り組みを始めた経緯や教育に対するこだわりについてお話を伺いました。
ー 大学生の頃から阪大に就職されるまで、どのような道を歩まれてきたか、お伺いします
出身が愛媛で、小学校6年生の文集には発明者か科学者になりたいと書いていて、その夢は叶えたのではないかなと思います。1番のきっかけは、小学4年生のときに「クラスの役に立つ発明品を作りなさい」と担任の先生が僕のために「発明係」を作り任命してくれたことです。その先生が僕の人生のトリガーですね。
そこで、クラスでメダカを飼っていたので「自動餌やり機」を作ったのです。時限爆弾と同じ原理で、長針と短針が触れるとスイッチが入り、モーターが動いて餌が入っているタンクの下の蓋を引っ張って、そこから餌が出る機械を作ったのです。ですが、短針と長針はすぐには離れてくれないので、ずっとONの状態でタンクの餌が全部落ちて、水が腐ってメダカが全滅してしまって…あれが僕の原体験ですね。
何か役に立つものを作りたいという想いが昔からあって、科学的興味・好奇心が旺盛でした。超電導も集積回路もロボットもコンピュータも全てに興味があり、高校のときは決めきれなかったのです。それで、大学に入ってから決めようと東京大学を受けたら落ちてしまいました。その後、大阪大学工学部を選んで、やりたいことが全部含まれるのは電気系だと思い、集積回路を設計したいと決め、電子工学科に入りました。ところが、大学4年生の研究室配属のときに、集積回路をやってる研究室は、電子ではなく情報だったことに気づきました。アナログの集積回路を扱っている研究室が、唯一電子にあったのですが、大学院大学の出張研究室で倍率が高く、ジャンケンで決めることになり一発で負けました。人生を決めるジャンケンで、チョキを出したら皆グーを出したのです。ここで僕が勝っていたら、この人生はなかったなと思います。仕方がないので大学院からその研究室に行こうと思いました。
ですが、その大学院大学のパンフレットを見ていると、別の研究室がバーチャルリアリティ(VR)の研究を扱っていて、面白そうだったのでそちらに変えました。面接のときに最初志望していた研究室の先生から何でうちじゃないのって怒られました。いまだにその先生とお会いすると冗談で怒られます。
そしてVRの研究室に入って研究を始めたのですが、僕はVRよりもコンピュータを新しいデバイスで操作するというヒューマンコンピュータインタラクションの方に興味が出てきて、ブロック型デバイスを作りました。それが面白かったので博士課程に行こうか悩んだのですが、両親の後押しもあって、結局進学を決めました。
両親が博士課程を後押しするのは珍しいかもしれませんね。あと、修士のときに一応就職活動はしたのですが、ある企業のリクルーター(OB)の方に「ドクターは持っていた方がいいですか」と聞いたら、「取れるときに取った方が良い」と言われて、「では3年後に迎えに来てください」「全然オッケー」というやり取りがあり、博士進学を決め、本格的に研究を始めました。
ただ、研究ばかりしていたわけではないです。ちょうど2000年頃は学生ベンチャーが流行っていて、僕の同期も会社を作って、そこでプログラマーを探していたので一緒に始めました。博士課程の大学院生と同時に学生発ベンチャーの社員でした。そうこうしていたら、先生から「助手の枠が空いたのでどう?」と言われて、大学教員になりました。
ー その時々の興味が元となって、行動されてきたことが多いようですね
僕はそんなことはないと思っていたのですが、意外に流れるままに生きていますね。1997年頃の、Webページを持つ学生などほとんどいない時期に、とあるバイクのオーナーズクラブのWebページを作っていたら、電通の人から「ウチにこない」と誘われたこともありました。今思えば行けば良かったかな。いまだに大学の先生らしくないと言われるのは、いろいろなことをやりすぎたせいかもしれません。一応、褒め言葉として受け取ってはいますが、もう少し大学の先生らしくした方がいいのかなとも思います。
ー 大阪大学で過ごした時間は、学生時代も含めるととても長いですよね
大阪大学には結局26年間いました。情報科学研究科で助教をしていた頃に、研究と並行して情報科学研究科の Web ページやネットワーク管理、とある予算のパンフレットのデザインをやっていました。当時のいわゆる助教が何でも屋状態ですね。
2008年に大阪大学の公式Webページがあまり良くないので戦略的・継続的に管理する教員組織を作ろうと、当時の鷲田清一総長が准教授のポストを割り当てました。そこで私の名前が挙がったようで、誘っていただきました。研究者として1番脂が乗る30代をどう過ごすのか少し迷いましたが、僕は面白いことが好きで、大学マネジメントも面白いことになりそうかなと考えお引き受けしました。当時の組織名は「ウェブデザインユニット」で、Webページだけ見てればいいと思っていたのですが、それだけでは埒が明かなかったのです。
当時何かをデザインするのに、「阪大とは何か」と決まったものがなかったのです。例えば阪大のロゴは正確に決まったものがありませんでした。もちろん銀杏のシンボルマークはありましたが、その横につける大阪大学の文字フォントが決まっていなかったり、公式カラーの青色も、みんな適当な青色を使っているような状態でした。ですので、そこからきちんとやらなければならないと考えて、ユニバーシティアイデンティティを確立することから始め、最終的には阪大のブランディングを実施するように手を広げていきました。その過程で「Webデザインだけではないね」ということで、組織名も「クリエイティブユニット」に変更されました。
だから、阪大のロゴはある意味僕の作品と言っても過言ではないのです。銀杏マークに合うよう、ロゴタイプと呼ばれる「大阪大学」とか「Osaka University」の文字を僕とデザイナーでデザインし、サイズやその位置などをかなり検討し作りあげました。色も、田中一光さんという著名なデザイナーさんが決めた色を、アメリカから取り寄せて、それに近い色は何だろうと検討したのです。そのような感じで、阪大のブランディングマネージャーやアートディレクターとして、さらに研究者として、二足のわらじを履いて13年やってきました。
ー YouTubeで「はちげんめっ!」が始まったきっかけについて、教えていただけますか
2020年の4月頃に緊急事態宣言になってからも、僕はずっと大学には行っていましたが、学生は来てはいけなかったので、ラボの部屋には僕1人でした。1人でずっとコンピュータに向かっていると、めちゃめちゃ寂しくて。授業も当然オンラインで、カメラをオンにするようを強制するわけにもいかないので、名前しか見えない空間に向かってずっと喋り続けていました。僕たちはまだ共同研究者などの話し相手がいますが、大学1年生などは寂しいのではないかなと思っていて、1度「寂しい人たち、集まらない?」とTwitterでzoomのURLを公開してみました。すると学生さんが80人くらい入ってきたのです。zoomの部屋に80人もいるとカオスでわけがわからなくて、でもとても面白かったのです。そこでは基本的に僕とまさにゃん(中村 征樹 氏 大阪大学大学教育実践センター・文学研究科准教授。)が喋っていて、たまに学生たちが絡んできたり、終わってみると結構楽しかったのですね。
そこからまさにゃんと「誰か呼んで喋ろうか」という話になり、それが「はちげんめっ!」の始まりなのです。オンラインライブで学生側の悩みや質問に対して大学の先生が答えるというのはいい枠組みではないかなと思いました。あと、元々大学の先生と学生との間には壁があり、僕の場合も、授業で話をすれば「こんな雰囲気の人か」とわかるのですが、zoomで顔が見えない状況で喋ると固くなってしまうみたいで、面白いことを考えているような人間に見えないようなのです。本来教員は、研究とかでは自由な発想で面白いことを考えているのにそれがオンライン授業だと伝わっていないと。そのあたりをどうにかしたいということで始めたのが「はちげんめっ!」です。第1回では、堅苦しくなくて、学生に近いゲストを呼ぼうと、でんがんさん(でんがん 氏 男性YouTuberユニット「はなおでんがん」の一人。大阪大学大学院基礎工学研究科修士課程修了。修士(工学)。)をお呼びしました。急遽その日に連絡を取ったら来てくれたのです。これはサプライズになるなと考えて、最初はゲストを呼びますと言わずに始めました。
プロフィール(インタビュー当時)
伊藤 雄一 氏
青山学院大学理工学部情報テクノロジー学科 教授。大阪大学大学院情報科学研究科情報システム工学専攻 招へい教授。1975年愛媛県生まれ。2002年大阪大学大学院工学研究科博士後期課程中退と同時に同研究科助手。同大学院情報科学研究科助教を経て、2008年より大阪大学クリエイティブユニット 准教授。2021年より現職。博士(情報科学)。専門はヒューマンコンピュータインタラクション。