中世ヨーロッパの思想家の研究人生から「大学」と「PhD」の意味を探る #ポスドク総研

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はじめに

この記事は、タイトルにもあるとおり、大学やPhDについて解説することが目的です。この目的を達成するためにはいろいろなやり方が考えられます。大学やPhDをめぐる現実的な問題から出発するのが一つのやり方ですが、それはむしろ別立てでしっかりと議論するべきことでしょう。以下では私の専門内容にそって、特にトマス・アクィナスという人物に注目して話を進めることにします。

私は2年前に日本で博士号(PhD)を取得し、現在は大学で非常勤講師などをしながら研究を続けています。専門は中世ヨーロッパの哲学・思想で、博士論文ではトマス・アクィナスという13世紀の思想家を扱いました。『神学大全』という主著でも知られる人物です。

トマス・アクィナスとは何者か?

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「春」や「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェリによるトマス・アクィナスの肖像画

トマスは、ローマとナポリのあいだに位置する地方で、1225年頃に生まれ、1274年に死にました。50年ほどの生涯の間に『神学大全』をはじめとするさまざまな著作を残したキリスト教の思想家です。彼の仕事量を知るのに役立つデータが、彼の生涯と著作を詳細に記したジャン゠ピエール・トレル『トマス・アクィナス 人と著作』(保井亮人による日本語訳あり)で紹介されています。1268年10月から1272年末までの著述量を平均すると、一日に書いたラテン語の文章量は2403語に相当し、最後の16か月だけに絞ると、その平均は約2倍に増えます。ぎっしり詰まったA4用紙を1ページとするなら、2403語は約7枚に相当し、最後の16か月にはその約2倍に達したわけです。秘書に口述筆記させていたとはいえ、3人ないし4人の秘書に対して同時に行わせていたと言いますし、彼は他に教育活動にも従事していました。その仕事量は圧倒的だと言えるでしょう。

この圧倒的な仕事量をこなしていたとき、トマスはパリにいて、パリ大学の神学部教授でした。彼はケルンにも滞在したことがあるので、現在であればイタリア、フランス、ドイツを転々としたことになります。大学への所属ということでいえば、まず彼はナポリ大学に学生として所属しました。のちに彼はパリ大学にも通うことになりますが、パリ大学には教師としても所属することになります。トマスの生涯を追う前に、ここで少し中世ヨーロッパの大学について説明します。

中世ヨーロッパの「大学」とは何か?

中世ヨーロッパは、制度としての大学が誕生した時代および地域として知られています。最初期の大学としてはボローニャ大学やパリ大学が有名です。専門的な研究や教育を行う機関自体は、ヨーロッパには古代からありましたし、非ヨーロッパ地域にも存在していました。「大学」という日本語は、もともとは古代日本にあった大学寮という機関に由来しますし、中国にはさらに古くから同様の機関があったことは『大学』という古典からも窺えます。重要なのは、中世ヨーロッパに誕生したと言われる「大学」は固有の意味をもつということです。

「大学」は、中世ヨーロッパ世界における標準語であったラテン語では《universitas》(ウーニウェルシタース)と言い、これは英語の《university》(ユニヴァーシティー)の語源です。「ウーニウェルシタース」は教師と学生の組合を意味します。つまり最初期の「大学」とは、学問を教えるものと教わるもの同士の団体をまずは意味していて、図書館や実験室などの施設をもつことは必ずしも含意していなかったのです。

中世の大学は基本的に都市のなかにありました。学生であれば、その都市のなかで生活し、勉学に必要な道具を何とかやりくりしながら授業を受けていました。教室は街中にある広間を借りて使われることもあったようです。基礎科目としては文法学、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽があり、専門的な課程では法学、医学、神学を学ぶことができました。教科書は賃貸しされるのが一般的でした。

そして学習は学術上の共通語であったラテン語で行われたので、学生の構成には地域的な多様性が見られました。共通語であるラテン語がわかればよかったからです。さらに、学生の構成には社会的な多様性も見られました。学生のなかには貴族のみならず職人や農民の息子もいて、多くの学生にとっては出世することが大学に行く目的でした。ただし女性がいなかったということは、現代との大きな違いとして挙げることができます。

中世ヨーロッパの大学に関する本は日本語でもいいものがたくさんありますが、チャールズ・ホーマー・ハスキンズ『大学の起源』(訳:青木靖三・三浦常司)とジャック・ヴェルジュ『中世の大学』(訳:大高順雄)の二冊をここでは挙げておきます。

トマスの「大学歴」①:ナポリ

トマスは、今でいえばイタリア人で、高い身分の家柄です。しかし大学に行くことになった理由は、彼の意思であるかはさだかではありませんが、出世のためというありふれたものでした。彼は、親の方針で幼少期よりモンテ・カッシーノ修道院に預けられることで、大学に行くよりも前にカトリックの聖職者になるための教育をすでに受けていました。この修道院は、ヨーロッパにおける修道院の歴史では必ず出てくる有名なもので、大学が成立する以前は教育・研究を担う代表的な機関の一つでした。しかしトマスは14歳か15歳くらいのときにここを離れました。より高度な勉学のためにナポリ大学に通うことになったからです。

ナポリ大学は、1224年に皇帝フリードリヒ2世によって設立されました。ボローニャ大学やパリ大学が「自然発生的」大学であるのに対して、ナポリ大学は「創設された」大学だと言われることもあります。このように中世には、皇帝によって作られた大学、あるいはトゥールーズ大学のように教皇によって作られた大学もありました(ちなみに、トゥールーズにはトマスの墓があります)。

トマスの生涯としては、ナポリでドミニコ会という托鉢修道会に入会したことが大きな転換点となりましたが、私としては彼がナポリで学んでいたことにも注目したいです。当時のシチリアや南イタリアでは、ヨーロッパでは忘却された古代ギリシアの学問的蓄積や、イスラーム世界の学問的成果が翻訳されて、豊富な学問的知識を手に入れることができました。万学の祖とも言われるアリストテレスの学問、ギリシアの医学、アラビアの天文学はナポリでも盛んに受容されました。

それゆえトマスも、こうした学問的な流行に接していたことが容易に想像できます。なかでも、彼の著作で何回も出てくることになるアリストテレスとアヴェロエス(イブン・ルシュド)が重要です。彼の著作では、アリストテレスは大文字で始まる「哲学者」(ラテン語だと《Philosophus》(フィロソフス))として、アヴェロエスは大文字で始まる「注解者」(ラテン語だと《Commentator》(コメンタートル))としてしばしば登場します。「アヴェロエス」という名前は「イブン・ルシュド」というアラビア語名をラテン語で表記した結果の名前です。「イブン・ルシュド」名義ではアリストテレスの注解以外にも重要な著作がいくつかありますが、ヨーロッパではアリストテレスの注解者である「アヴェロエス」として知られていました。

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15世紀に描かれた「聖トマス・アクィナスの勝利」。真ん中にトマス、左にアリストテレス、下にアヴェロエスが描かれている。また、右にはプラトンも描かれている。

私が強調したいのは、大学に通うことを通じて、トマスはアリストテレスやアヴェロエスに「出会って」しまったということです。この出会いは、神学者としての彼の職務にも関係するものとして、生涯で忘れられることのないものになります。そこで彼のパリ時代について見ることにしましょう。

トマスの「大学歴」②:パリ

トマスは生涯において、パリには三度滞在しました。一度目は勉学のためでしたが、二度目と三度目は教える側としての滞在で、そのときに神学部教授になっています。彼は神学部教授に二回なりましたが、一度中断があったのは他の機関で教育などの仕事に従事するためです。

この記事のはじめで、トマスが圧倒的な仕事量をこなしていたことを紹介しましたが、それは第二回パリ大学教授時代のことでした。この時代に彼は、「注解者」アヴェロエスに由来するとされた反キリスト教的な主張をめぐる論争に関わっていました。彼が直面したのは、天地創造とは相いれない「世界の永遠性」という主張や、個人の魂の救済とは相いれない「知性単一説」です。これらの主張は、アヴェロエスのアリストテレス注解が大学などで講義されることを通じて徐々に流布していった結果、キリスト教に反する側面が強く問題視されることになります。

この論争に関わるなかで、トマスはアヴェロエスに対する批判的な態度を強くすることもありましたが、それと並行して行っていたのは、「注解者」と同じくアリストテレスを注解することでした。注解の対象となったアリストテレスの著作名としては、『命題論』、『分析論後書』、『自然学』、『魂について』、『形而上学』、『ニコマコス倫理学』が挙げられます。諸学の「道具」(オルガノン)である論理学から、実践的な哲学である倫理学にいたる幅広い分野をトマスは研究していたのです。その際に彼は、アヴェロエスの注解を活用することも欠かしませんでした。

こうしたアリストテレス研究は、反キリスト教的な主張に対する批判を行うという職務上の必要性もあってのことかもしれませんが、トマスなりの純粋で知的な探究心に基づいている側面もありそうです。そのことを示す彼自身の文章として、最晩年に取り組んでいたアリストテレス注解の一節を引用しましょう(ラテン語原文から私が翻訳しました)。

「哲学の研究は、人々が何を考えていたのかを知るためにあるのではなくて、さまざまなことの真理がどのようであるかを知るためにある」(『「天界について」注解』第1巻第22講)

この一節にはさまざまな解釈がありえますが、ここではアリストテレスやアヴェロエスに対する出会いの大切さを強調したいです。アヴェロエスに帰される主張が批判されることになるとしても、重要なのは事柄としての真理がどのようであるかを見極めることであり、そのためであればアリストテレスもアヴェロエスも有益な素材を提供してくれることに変わりはありません。そして彼らとの出会いをトマスにとって可能にしたのは、大学という場所だったのです。

トマスはPhDをもっていたか?

博士号(PhD)について話をすることがまだ残っていました。トマスは「天使博士」という異名をもっていましたが、彼が人々から「博士」と言われていたのは、研究業績に対してだけではなくて教育業績に対してでもありました。トマスは神学部の専門課程を「修了」したと言えますが、博士論文を書く代わりに、神学の教科書であった『命題集』(英語だとSentences)を講義してその注解を書くことが修了要件の一つでした。その前に聖書を教えることも要件になっていました。そして重要なのは、「修了」によって得られるのは教授資格であり、トマスも神学部教授としての教育活動に従事することになります。講義のみならず討論という形式で行われる授業も担当し、その成果は主著の『神学大全』にも反映されています。中世ヨーロッパの大学では教育と研究が一体であったことがよく窺え、その名残は今でも見られます。

それに対して私は、これが典型的な事例であるかはさておき、博士号を取得するまでは大学で授業を担当したことはありませんでした。現代の博士号は基本的に、研究成果としての博士論文が認められることにより与えられるものです。たしかなのは、現代の博士号をめぐる状況は、19世紀以降の新たな流れの影響を受けています。二つだけ指摘するなら、1810年にベルリン大学が研究中心主義を唱えるフンボルト理念の下に創設されたことと、1876年にアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学が「大学院」を世界で初めて設置したことが重要です。

また私は、大学では講義のみならず演習も担当していますが、この演習という形式もドイツで「ゼミナール」として始められたものだと言われています。COVID-19の流行による影響で従来のように演習を行うことができないのは非常に残念ですが、オンラインだと何ができるのかを見極める機会でもあることは間違いないでしょう。

おわりに

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パリの7区にある「聖トマス・アクィナス広場」(筆者撮影)

大学およびPhDについて、この記事では私の専門内容に合わせて話をしました。中世ヨーロッパの大学に関する歴史を見ながらトマスの生涯を少し詳しくたどったのは、彼が大学という制度と切っても切れない関係にあったことを示すためでした。またPhDに関することは、中世ヨーロッパと現代とで断絶が強く感じられるところかもしれません。

私は、大学には哲学か歴史を学ぶために入学して、哲学なら古代ギリシアのプラトンについて勉強しようと思っていましたが、3年生のときにトマス・アクィナスに「出会って」しまいました。トマスは大学のなかでは神学部の人間として主に活動していましたが、彼の魅力はそれにかぎりません。トマスにしても(私にしても)、大学はそうした「出会い」の場だったわけですが、今でも大学には「出会い」の媒介という役割があることを信じています。

[文責・石田隆太]

石田隆太氏のプロフィール:筑波大学で博士(文学)を取得。専門は西洋中世哲学。日本学術振興会特別研究員PD(慶應義塾大学)を経て、現在は筑波大学や東洋大学などで非常勤講師を勤める。スイスのフリブール大学(Faculté des lettres et des sciences humaines)に留学経験あり。2020年5月よりQeSに参画。

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