海外でポスドクをしよう—滞在編(8)

博士の日常

今日は、海外で生活・仕事をする上で避けては通れない「政治的な話題」に関連したことに少し触れます。

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「政治的ななにか」に向き合う準備

こちらのシリーズ第2編では、海外ポスドクとして着任した直後に、いかに周囲と打ち解けるかについてご紹介しました。その際には「欧米の人々、とくに知識層の中には政治的トピックや社会問題に関心を持っている人が多いです。…欧米では逆に政治について何も知らない・考えたことがないと知られると驚かれます。」と書きましたが、その象徴となる最近のアカデミア界のニュースがありました。

9月の終わりに研究者(特に心理学)界隈の話で一つ小さなニュースになっていたのは、『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』などの本で知られている有名な道徳心理学者ジョナサン・ハイトが、アメリカの心理学界隈最大の学会の一つである「性格と社会心理学会(Society for Personality and Social Psychology;以下SPSP)」から脱退する意向を示したことです。

報道参考リンク:
New York professor to resign from psychology society over ‘antiracism’ requirements
https://campusreform.org/article?id=20296&utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

SPSP学会は広い意味の社会心理学界にとって非常に有名な主流学会であり、研究者たちが交流する場として非常に重要な役割を果たしています。そのため、通常では一度入会するとよほどなことがない限りずっと会員の身分を保っていられます。「よほどなこと」には死亡・体調問題・研究活動からの引退などがあげられますが、今回のハイトの脱退理由は明らかに違いました。

ハイトが学会に反発した理由はSPSP学会の新しい規則にありました。学会は次の大会から、すべての発表希望者に対して、「該当発表はSPSPの平等性促進、包括性促進、反人種主義の目標の推進に寄与するか、どれくらい寄与するか」に関する説明を求めると決めています。ハイトはその要求はリベラルな政治態度を強要するものであり、学会としての政治的中立性や政治的多様性を損なうものであり、最終的に「真実の解明」を目標とする学術の進歩を損なわせる恐れがあると危惧していました

彼は自分のブログで今回の一件の経緯を説明し、この危機感は自分自身の政治的思想(彼は自分はリベラルだと主張しています)とは関係ないことを強調し、いかなる立場の政治的な思想であれ、それが過度に学術活動に干渉するべきではないという立場をとっています。

つまり彼は、反人種主義という政治的主張は学会の中で議論の対象となるべきであるが、学会の原則そのものとして使用されてしまうべきではない、さもなければSPSPの存在自体がリベラルに偏ってしまい、その中立性が損なわれることを主張していました。しかし、SPSPからの返答はハイトの憂いを解決できるものではなかったので、彼は脱退する意志を固めました。

参考資料:The Two Fiduciary Duties of Professors
https://heterodoxacademy.org/blog/the-two-fiduciary-duties-of-professors/

この件自身は、皆さんにとって遠い国の話に過ぎないかもしれません。興味がない話かもしれません。学問は、大学は、研究者は、学会は政治的に中立した立場をとるべきか、などといった議論は、駆け出しの若手研究者には荷が重すぎると感じる方もいるかもしれません。筆者がここで本件を取り上げるのはハイトの主張の是非を議論するためではありません。

筆者はこの例を通して、以下の点を示したいと考えています。

(1)研究生活を営む上で欠かせない場である学会や大学の成り立ち自体が政治的な問題になっていることがわかります。近年の欧米諸国の内政や国際情勢を見るかぎり、政治的な議論は以前よりもずっと身近になってしまっているように見えます。

海外でポスドクをやろうとしている人は、自分が興味あるか否かに関わらず、こうした政治的問題が関わる議論に巻き込まれる可能性があるということです。日本の研究者は欧米の人たちほど政治的話題に興味関心がないかもしれませんが、いざその地に踏み込めば、何らかの形で政治的問題に直面することになります。

政治的なものにはいつか向き合わないといけないことを受け入れ、欧米文化の保守対リベラルの構図と主要な議論とは何かなどについて積極的に理解を進めるのは、最低限必要なことになるかと思います。そういう意味では、ハイト氏の著書『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』は良い読み物になるかもしれません。著者もまだまだ対立を超脱できていませんが。

(2)個人が大きな組織に異議を唱えること自身についてです。特に、個人と組織の主義主張、信念信条の衝突のために戦いを挑んでいくのは、日本ではほとんど見られることはありません。欧米でも皆がやっていることではありませんが、時折見られている現象で、特段に驚かれることでもないでしょう。

海外でポスドクとして働くことは、こうした文化差に直面することにもなりますので、心づもりはしていた方がいいでしょう。

(3)こうした出来事も学術界のニュースの一つとして研究者の関心を惹きつけます。研究者は決して目の前の研究テーマだけが目に入るように生活しているのではありません(個人差はありますが)。研究全体のトレンドや学術界の最新動向、そしてこのような研究以外の出来事について把握することも、研究者にとって重要なことです。

「流出」とされてしまった側として何を思うべきか

上の話題については、所詮別国のことと感じたり、アメリカで生活しないかぎり自分と関係ないと感じたりする人もいるかもしれません。しかしアメリカだけが政治的な問題を抱えているわけではありません。

日本から海外に行く時点で、ただの「研究者」としてのアイデンティティ(身分)のほかに、「日本人」・「アジア人」などといった出身に関連するアイデンティティも活性化されます。つまり自分がどんな発言・行動をとったら、それを単純に「〇〇さんという個人の言動」として捉えられることもあれば、「日本人の言動」・「アジア人の言動」として捉えられることもあります。

アイデンティティが複雑化すると、さまざまな政治的問題につながってしまうことがあります。海外で研究・生活することは、このような問題に直面することをも意味しています。避けては通れません。

最近の日本人研究者は、このようなアイデンティティの問題に直面することが多くなりましたが。一つの例が日本の研究力・論文発表数の国際ランキング低下に伴う議論の中で注目された「頭脳流出」というキーワードです。頭脳流出は日本の優秀な研究者が国内で研究ポストを獲得することを放棄し、海外に出てしまうことを指しています

(「流出」という単語を使う際には特に中国を意識していると思われます)。

参考リンク:
朝日新聞の連載「頭脳流出 研究者はなぜ中国へ(全4回)」
第1回:https://digital.asahi.com/articles/ASQ9H5JHTQ7YULBH00D.html?iref=pc_rensai_article_short_1611_article_1

頭脳が流出する現状が何によって生み出されているか、日本としてどう対策するべきかなどについては、本編の議論の内容としません。問題は、個人がどこで生活し仕事をするかが、個人の選択として扱われるだけではなく、政治的な問題としても扱われてしまうことです。みなさんが海外でポスドクをすると、流出した頭脳として扱われてしまい、そしてその扱いによってさまざまな問題に直面してしまうことがあります。

頭脳流出という単語に抱いた違和感

 「頭脳流出」に関する議論において、たとえ比較的リベラルな立場をとる報道でも「頭脳流出」の単語を使用していました。筆者はその単語の中には、個々の研究者がそれぞれの家庭やキャリアや人生を持っている人間をしての属性を剥奪し、「物」として「国の財産」としてしか扱わないような、冷酷な見方が見え隠れているように思えて仕方ありません。

一国民のアイデンティティを使って個人を「国」という車に縛り付け、個々人の人生を国の所有物として扱い、その方向性やあるべき姿を恣意的に支配することは、果たしてあって良いものでしょうか。この点に関する議論は、政治学や哲学の中には歴史があると思いますが、残念ながら筆者は詳しくありません。ただ、現在のような状況の中では一当事者としての意識が芽生えやすくなっていると思います。

アイデンティティのはざまに落ちる

 出国して違う土地で生きる・仕事することは、複数のアイデンティティを同時に抱え込むことになります。そのことによって、どのアイデンティティに立った意思決定を行うべきかが、決定者本人の意向と周囲からの要求との間に齟齬が生まれることがあります。

中国への頭脳流出に関して、インターネット上で的外れなバッシングが湧いていたこともありました。移籍した研究者を売国奴呼ばわりしたり、憶測だけを頼りに移籍者リストを公開し、対象者に個人攻撃をおこなったり、研究者が移籍できないように規制をつくることを呼びかけたりとするような人が多くありました。全くの的外れですが、それが結果として海外で仕事する研究者を悩ますことになります。

このような現象は決してめずらしいことでもなく、研究者だけがターゲットになることもありません。そしてバッシングの対象が、衝突を抱える相手国の人だけではなく、相手国と繋がりを持つ自国の人に向けられることもあります。

例えば日韓関係が冷え切っていた時には、韓国で生活する日本人、さらに韓国で日本製品を使っているだけの韓国人も、バッシングの対象になっていました。第二次世界大戦の間に日本社会で見られていた「非国民」への強い圧力も、決して遠い過去の話ではありません。

こうした現象は皆さんにとってもよく知っていることかもしれませんが、筆者の経験からすると、いざターゲットとされてみないと、自分がどのように感じ・どのように悩むのかが予測できないかもしれません。

筆者は決して海外へ行く意欲を萎縮させるためにこの点を指摘したのではありません。筆者は現在も外国人の身分で日本での生活を楽しんでいますし、オーストラリアにいた時もアイデンティティの違いを楽しみながら研究生活を送っていました。

ただ、皆さんには海外に移動すると現実として直面せざるを得ない問題をよく認識してもらい、よく考えた上で自分の人生とキャリアの方向性を決めてもらった方が、後悔のない意思決定につながるのではないかと思った次第です。

[文責:LY / 博士(文学)]

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