博士の「こわさ」をくぐってみて

博士の日常
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博士号は昔から「足の裏の米粒」と表現されることがあります。

その心は、

「取らないと気持ち悪いけど、取っても食えない」

はじめに

今回の記事を書くにあたって
「自分が偉そうに博士についてなど語れるのだろうか」
と結構ためらいました。

私の場合、博士号取得までには単位取得退学を経て、通算7年以上かかっていますし、生活面をはじめ、周りの方々の多大なるご支援・ご協力のもと(本当にありがとうございます)、ようやく要件を満たせたという実際だからです。

「博士」と言うと、初対面の人に思いのほか尊敬されたり、場合によっては「住む世界が違う」的に、若干引かれることすらあるのですが、大学院の博士課程というのは、私にとってはむしろ、

「自分がまったく、大した人間ではない」

ということを痛いほど思い知るために、必要な期間だったように思います。

まだ世界の誰も知らないことを論文にして出す、というのは、深さの分からない真っ暗い谷に身を投げるようにも感じましたし、本気で

(こわいぃぃ!!)

とトイレで泣きながら論文を書いていた時期もありました。

それでいて、博士号を取ったら輝かしい未来が急激にパァっと開けるのかといったら、そうでもありません。

日本では特に、先述の「取っても食えない」イメージが根強く残っているせいか、大学院進学率、特に博士号の取得割合は他国に比べて低い水準となっています。図1にあるように、他国が増加傾向(水色→青色で人数が増加)であるのに対して、日本では減少しています。

図1:各国における人口100万人あたりの博士号取得者数

図1:各国における人口100万人あたりの博士号取得者数
(文部科学省 科学技術・学術政策研究所「科学技術指標2019」を基にアカリクが作成)
※水色:2008年のデータ
※青色:2016年のデータ(ただし米国は2015年、韓国は2017年のデータ)

確かに現在でも、博士号取得者の就職状況は全体的に恵まれているとは言い難く(詳しくは他の『ポスドク総研』の記事もご覧ください)、単に日本でお金を稼ぐことが目的であれば、学部もしくは修士課程を卒業した時点で就職するのが賢明なのかもしれません。

しかしながら、私自身は振り返ってみると、学位を取得する中で得られたものは多く、博士課程を経験できて本当によかったなと、しみじみ感謝する今日この頃なのです。

この記事では、私が「博士課程で身についたと思えること」をわずかながら書かせていただこうと思います。

マイナーな研究分野で、留学経験もなく、本格的な就職活動もしたことがない私が「~すべき」のような力強い結論をお示しすることはできないですが、1つの経験談としてご参考になることがあれば幸いです。

目標までの道筋をつける

院生時代、何かにつけて
「どうすればそれができるか?」
を自分自身に問いかけていました。

たとえば「論文を書く」というと漠然としすぎて、何から手を付ければいいのか分かりませんが

1, これまでの先行研究を集める
2, 手持ちのデータを確認する
3, 区切りのつきそうな範囲を決める
4, 足りない実験の計画を立てる
5, 必要な試薬を注文する

といったように、ステップを細かく分けていき、最終的にすぐに取り掛かれる単純作業にまでサイズを落とせば、目標に向けて今日できることがはっきり決まるわけです。

その過程では、「他の学生の研究内容と被らないようにする」など、自分だけでは決められない部分も出てくるかと思いますが、それでも

1, 指導教員に相談を持ちかける
2,
日時を決める
3, 相談内容をまとめておく

など、自分が取れる行動に対してステップ分けと実際の作業を継続して行います。

この習慣は、初見の仕事の段取りをはじめとして、「今日何食べようかな」といった日常の細かいことまで幅広く応用できるので、今でもずいぶん助けられている気がします。

さらに、人生でぶち当たる様々な出来事に対して「どうすればそれができるか?」と突き詰めて考えていくと、自分でも予想していなかった結論に到達することがあります。

逆説的にも見えますが、考えて考えて、考え抜いた結論が「考えるのをやめること」だったり、「頑張らないこと」「直感に任せること」だったりしました。

捨てる決断

研究の成果である論文を仕上げていく中では、「どのデータを入れるか?」と同じくらい「どのデータを入れないか?」の決断を迫られます。論文の大筋から逸脱するデータや、別の論文に入れるべきデータは、潔く「入れない」という決断をすることになります。

しかし、そのデータを取るまでに時間やお金がかかっていたり、個人的な思い入れが強かったりすると、「入れない」と決めることは時には難しく、他の研究者との間で意見が分かれることもあります。

これは別に研究に限られたことではなく、だれもが有限の時間の中で
「何をして、何をしないか」
の決断を日々迫られていることと思います。

そして多くの場合、何かを新しく始めるよりも、何かをやめたり捨てたりする方が難しいのではないでしょうか。

そういった決断をする際、かかった労力や、個人の感情ではなく、
「目標(研究の場合は、論文が出版できること)に近づけるかどうか?」
という判断基準を自然に持てるようになったのは、自分にとって大きなことでした。

「米粒」を取った経験から

以上は総じて「目標を立て、実現させる訓練」だったとも言えます。しかし、これらが果たして博士課程でないと身につかなかったのか?というと、それは分かりません。

私はかなりぼんやりした学生で、特に何の考えもなく大学院に進み、途中で(やっべぇ!)と気づいてからもがき始めたので、ここまで書いたようなことは
「すでに普通にやってる」という方も、
「就職して身についた」という方も、
または
「そんなの要らない」という方もおられると思います。

万人に共通する正解というものはもちろん無く、大学院、特に博士課程に進学するかどうか、もっと言えば人生の中で何を選んで何を選ばないかは「自分が何に価値を感じて、何を目標にしたいか?」にかかっています。

何かを達成するための「方法」はネットでも検索できますが、自分の「価値観」に基づいて「目標」を決めることは自分にしかできません。

私自身、なかなか論文が出せず「どうすれば博士号が取れるか」と考えたとき、「もっと大きな、人生の目標が定まっていなければ、自分に博士号が必要かどうかすら分からない」と気づきました(いや、もっと前に気づけよ、というお話ですが)。

そして「どこでも、だれとでも働けるようになりたい。この先の選択肢を広げておきたい」という、当時思いつく限りの目標のもと、トイレで泣いたりしながらも「足の裏の米粒」を取るための道筋をたどっていったのでした。

はたから見れば、相当効率が悪く、遠回りをしながら取った「米粒」であり、この先「食えるかどうか」も分からないですが、ここに至る経験が自分の中で何物にも代えがたい宝物になっていることは確かです。

たとえばもし、これを読んでいるあなたが今、何かの岐路に立っていて、意思決定の利便性のためだけにせよ、目標を決めたいと思うなら
「どうすれば目標を決められるか?」
という問いが出発点になるかもしれません。

おわりに

私が論文を出すときに感じた「こわさ」というのは
「正解が分からないこわさ」
「間違っているかもしれないこわさ」
であり、それらのこわさをくぐってみた後で改めて辺りを見回してみたら、そもそも未来をはじめ、だいたいのことは分からないし、今、自分が選んだり、やっていることはいつだって、間違っているかもしれないのです。

そして、
「分からないこと」
「間違うかもしれないこと」

「こわがるのか」
「すべてひっくるめて楽しむのか」
は、自分で決められることなのでした。

研究生活や私生活の中で、さまざまな試行錯誤をする時間と環境を与えていただいたこと、先生方、学生のみなさんをはじめ、これまで出会えたすべての方々に心から感謝しています。

[文責・芝野 郁美]

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